聖福寺の歴史
聖福寺は建久6年(1195年)に鎌倉幕府初代将軍源頼朝公よりこの地を賜り、栄西禅師を開山として創建された日本最初の禅寺です。山号を安国山、寺号を聖福至仁禅寺といいます。元久元年(1204年)後鳥羽天皇(後上皇)より、日本で最初の禅寺である「扶桑最初禅窟」の勅額を賜りました。又、栄西禅師は中国(南宋)よりお茶の種子を請来し、茶樹の栽培、喫茶の方法を伝え、その普及に大いに貢献し、後に茶祖と称されました。栄西禅師が京、栂尾高山寺の明恵上人に茶の種を分けてあげた話は有名な事です。
聖福寺の境内は、創建当初、鎌倉幕府源頼朝公より方八町(約900余m四方)を戴き、七堂伽藍を建立して、丈六の釈迦・弥勒・弥陀の三世仏を安置していたと伝えられています。塔頭も多い時には38院(現在は6院)を数えました。境内の一部は寺中町を形成していたと言われ、今に残る博多の地名で、普賢堂・中小路・魚町・店屋・蓮池・西門などは当時からのものです。又、栄西禅師は文治5年(1189)中国(南宋)から持ち帰った菩提樹を香椎の文治寺(後報恩寺)に植え、後、東大寺鯖木の跡にも建久6年(1195)植え、各地に植えられるようになりました。
室町時代に入って、聖福寺は五山十刹制度の十刹第三位(後に第二位)に序させられました。室町幕府の衰退と戦乱により荒廃しますが、天正15年(1587)の太閤町割により寺域も方四町に狭められ、天正17年に第110世耳峰禅師が二度目の再建をし、ほぼ現在の伽藍配置になりました。
境内には勅使門・山門・仏殿・方丈・庫裡・禅堂などの禅宗様式の七堂伽藍が建ち、周りに総門・開山堂・経蔵や塔頭が建ち並んでいます。聖福寺は初め建仁寺派に属していましたが、江戸時代に黒田長政公の命により妙心寺派に転派しています。昭和44年(1969)に山内寺院を含め境内一帯が国の史跡に指定されました。