聖福寺 坐禅 写経 ホーム
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境内点描
菩提樹 お釈迦様は菩提樹の樹の元で坐禅を組み、明けの明星をご覧になられて、お悟りをされた。仏教にとっては大切な樹です。
禅堂の前には僊厓禅師が「菩提之樹、勿翦勿伐佛之所坐」の石碑を建てて大切にしています。その他、開山堂前にもあります。ここにある菩提樹はインド菩提樹と違い支那菩提樹です。
聖福寺境内 国指定の史跡に昭和44年11月7日指定されています。
禅宗様式の直線に結ぶ、勅使門、放生池(無染池)、山門、仏殿、方丈と庫裡や禅堂などの七堂伽藍が建ち並んでいます。
聖福寺仏殿之記 聖福寺第33世の無隠法爾が正平10年(1355)から12年かけて、再建したことを河南(元の時代)の陸仁が選文し、正平23年2月7日に石碑を建てたが、いつしか消失してしまった。第124世湛元等夷が文政10年「群書類従」の中より聖福寺佛殿記を見つけ、仏殿前に天保5年7月に再建した。
鎮 守
八幡社
八幡社は開基源頼朝公の関わりからである。

白山社
白山妙理社は聖福寺十景の一つに数えられている。

稲荷社
稲荷社の由来は定かでないが、僧堂の鎮守として祀られている。

菩 所


廣田弘毅

明治11年(1878)2月14日生、昭和23年(1948)12月23日没、幼名を丈太郎といい法名は「弘徳院殿悟道正徹大居士」福岡での旧跡を紹介します。天神3ー16-10に「廣田弘毅先生生誕之地」の石碑が建っています。出光興産(株)創業者、出光佐三氏が揮毫しています。水鏡天満宮の南側の鳥居の「天満宮」の石額の書は11歳の時の書である。 「丈太郎」から「弘毅」に改名したのは旧制修猷館中学卒業直前に「論語」巻四、泰伯第八にある「士不可以不弘毅」から採ったそうです。市美術館の入り口に和服姿の銅像の下に「浩々丹心輝萬古」と辞世の句が刻まれています。

詳しくは、聖福寺院誌「30号」をご覧ください。


満田彌三右衛門
建仁2年(1202)10月15日生で弘安5年(1282)8月25日に没しています。33歳の時、南宋に渡り、織物、箔焼などを習得して帰国した。特に博多織の祖として有名である。法名「月古凉秋居士」、開山堂奥の山田本家の墓地に眠っています。満田家は江戸時代の初めに山田家に改称しています。

平岡浩太郎

嘉永4年(1851)6月23日生、明治39年(1906)10月24日没。法名「恵海院正專浩徳居士」、明治11年自由民権運動に参加し進藤喜平太と共に向陽社を組織し、明治14年(1881)玄洋社と改名し、初代社長に就任した。福岡の炭鉱王とも呼ばれ、その財力は玄洋社の活動に止まらず、郷土の後輩の学費の援助や孫文など支援していたようである。

詳しくは、聖福寺院誌「29号」をご覧ください。


松壽君

天正18年(1590)生月日不詳、慶長8年(1603)3月1日没、法名「大通院殿雲澤宗龍大禅定門」、黒田長政の妹の子「松壽君」が亡くなり葬儀を九皐宗畴和尚の導師によりなされた。その当時聖福寺は建仁寺派、九皐和尚は妙心寺派であった為に黒田家と聖福寺と建仁寺、妙心寺の間でいろんな問題を抱えていた時に、翌年慶長9年に如水が亡くなった、福岡での墓を(菩提寺)を断ったが、妙心寺派となり、九皐和尚は第111代住職となった。

詳しくは、聖福寺院誌「28号」をご覧ください。


王 藤内
小早川隆景

王 藤内 供養塔(左)
栄西禅師の俗弟と言われている。蘇我兄弟仇討のとばっちりを受けて建久4年(1193)5月、命を落としたと伝えられている以外は殆ど不明である。

小早川隆景 供養塔(右)
元文2年(1533)生月日不詳、慶長5年(1597)6月12日没。隆景は毛利元就の三男、12歳の時に小早川家の養子となる。「三本の矢」の話は有名な語り草です。九州征伐で九州を平定した功績に対して筑前一国を与えられ、博多津名島に築城した。太閤町割りにより聖福寺寺領を四分の一に減らされましたが、聖福寺の復興に尽力しています。朝鮮鐘(国指定重要文化財)も、その時奉納されたものです。供養塔は聖福寺墓地にあります。法名「黄梅院殿泰雲紹閑大居士」

詳しくは、聖福寺院誌「26号」をご覧ください。


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